【歴史クイズ(戦国編)】1582年の今日、9月12日に亡くなった井伊の女城主の名は?

【歴史クイズ】


前回の答え: 刀根坂の戦い(とねざかのたたかい)


織田信長と対立した室町幕府15代将軍足利義昭は、いわゆる信長包囲網を形成して信長に対抗しようとします。

浅井長政、朝倉義景は、この一員として信長と戦いますが、苦境に追い込まれていきます。

1573年4月、同じく包囲網の一員であった武田信玄が死去し、7月には盟主の足利義昭が京都から追放されるなど(槇島城の戦い)、包囲網側は明らかに不利になりました。

同年8月、織田信長は、3万の軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入ります。

これに対して浅井長政は、5,000人の軍勢をもって小谷城に籠城し、朝倉義景も家中の反対を押し切った上で、自ら2万の軍を率いて長政救援のため、余呉に本陣を敷きます。

ところが、長政の部将である山本山城主阿閉貞征が信長に寝返ったため、織田軍は月ヶ瀬城を落とし小谷城西側へ包囲を広げることが可能になります。

また、朝倉側も重臣魚住景固らが数年来の軍事疲弊を理由に出兵を拒否、やむなく義景自身が出兵するしかなくなるなど、この頃から織田方の内部工作および朝倉氏家中の闘争による崩壊が窺えます。

義景は小谷城を後詰めすべく、小谷城の背後に位置する北西の田上山に戦陣を構築、同時に大嶽砦(城)などからなる小谷城守備の城砦群を築きます。

一方、織田軍本隊は10日に田上山と小谷城の間にある山田山に割って陣取り、朝倉方を盛んに挑発牽制します。

12日、信長は本陣より自ら1,000人の手兵、馬廻のみを率いて軍を返し、朝倉方が守る大嶽砦を奇襲します。

朝倉方は、暴風雨の中を敵が攻め寄せてくるとは思っても見なかったために降伏した敵兵をわざと解放し義景の陣へ向かわせます。

義景は大獄砦の陥落を知れば必ずや撤退すると考え、そこを追撃しようと考えます。

信長は次に、朝倉方の越前平泉寺僧兵が守備していた丁野城(砦)を襲って手中に収め、そこでも敵兵を解放します。

この2城に兵を配置した後、信長は朝倉は必ず撤退すると考え、先手に佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・木下秀吉・丹羽長秀などを配置します。

嶽砦の陥落を知った朝倉義景の軍は2万に対し、織田軍総勢3万。

しかも朝倉勢は、前述のように主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟った義景は撤退を決断します。

朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃し、皆殺しにします。

義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀根坂に向かいますが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受け、朝倉景行、朝倉道景、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など、3,000人以上の死者を出したと言われています。

織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した結果、朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅し、義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還しました。



今日の問題: 1582年の今日、9月12日に亡くなった井伊の女城主の名は? ↓

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答えは次回(^-^;



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